映画版 遊戯王 THE DARKSIDE OF DIMENSIONS ネタバレ感想&考察

海馬社長ファン必見の一作だった!

私は社長大好きだから!ああっ公式がここまでやってくれるなんて…!私は…古代文明マニアとして…魂の原点を感じました…!パンフレットも買ってきているので、ざっくりとしたネタバレ感想と、私がうぉお!と思った細かいポイントについて書いておきたいと思います。

映画本編及びパンフレットのネタバレ注意です!

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●全体の感想

前提: 「」はパンフレット等からの直接引用になっております。

①主人公は海馬瀬人だった(断言)。

というのも、映画全編通しても、宇宙ステーションにいる社長に始まり次元を超えていく社長に終わった。
そして、公式パンフレットの社長のページの桑原監督と加々美作画監督のコメント、個別インタビューの原作者高橋先生のインタビューを読んでも、海馬瀬人こそがこの映画のきっかけであり、最後の答えの”一つ”なんだなということなのです。

高橋先生は、「原作は自分の中で完結していた」としているものの、「ただ、海馬というキャラクターをもう少し描いてみたいという思いはあり、ストーリーを膨らませていくうちに、遊戯や仲間たちのエピソードが加わっていき」と言っています。

つまり、社長が映画のきっかけ!原点だったのですwwwww社長ぅううううううー!!

ちなみに、『千年の書 遊・戯・王キャラクターズガイドブック (Vジャンプブックス)』の28頁の映画版に関するコメントでも、「最初は海馬の話だけでも2時間のストーリーが一杯になって」と言っています。つまり最初のゲノムや宇宙エレベーターのくだりがすべて省略されているけどもっともっとあったってことですよね><社長愛されてる…!

②三通りの思想(=執着、信念)

今回は3通りの思想が出てきて、そのうち強い意志をもって「権力と力で理想を突き進む者(=高橋先生インタビューページより表現をそのまま引用)」として社長が出てます。

仲間との絆を大切にして、個々の自立を目指して生きている表遊戯たち。
集合的意識=プラナを束ねて理想世界への解脱を目指すディーバ(藍神)。
そして、権力と力で理想を追い求める海馬社長。

どれが正しくどれが間違っているという問題じゃないのです。
高橋先生もパンフレットのインタビューのなかで、「登場人物の誰の生き方に共感するか。ぜひ観客の皆さんにも考えてほしいと思います」としているように、遊戯王という作品自体が単純なお子様向け水戸黄門展開のストーリーではなく、自分はどう考えるかという機会を提供してくれるメッセージ性の高い作品なのです。

みていくと、表遊戯たちについて先生は「杏子と別れる時でさえ笑顔で見送る」所を強調しています。彼らは、離れていてもつながっていて、誰かのやりたいこと、誰かの幸せを願っているのです。そして再び集まるときを楽しみに、それまで自分のことを一生懸命生きていこうとしている。「自立」しているけれど「絆」を信じているのです。いや、「絆」を信じているから「自立」できるのかもしれません。

藍神…ディーバたちについては真面目に語ったらクッソながく専門的になりすぎたので、興味のある方はこの記事の一番下に注で付けておいたのでゆっくりお読みください…( →注1へ飛ぶ 
私は、ディーバは、居場所のない孤児であったところを理想郷のために戦う選ばれし決闘者になり、よりどころのシャーディを失ったことでさらに彼らのアイデンティティは選ばれし者とその果たすべき使命(+獏良への復讐)にしか目が向かなくなったのだと思いました。そんな彼らが、遊戯達と出会い、社長と戦い、そして自らが千年リングによって苦しんだ挙句にアテムによって解放され、理想郷にたどり着かなくても、妹やマニたちと現在を生きていくことも有りうることなのだ、理想郷にいかなくても自分たちの幸せはここにもあったのだと気づかされたのだと解釈しました。
だから、映画版で一番救われたのは、ディーバだと思いました。よかったねディーバ。

最後に社長ですが…。最初こそ、アテムへの執着心で力と権力を活用して猛烈に突き進んでいる印象だけが狂ったように映っていましたけれども、彼は狂っていながら狂っていなかったのだと思います。加々美作画監督のコメントにもあるように、彼には「理性」がありました。
社長がアテムの復活のためだけにあらゆる技術革新を急速に推し進めたことで、宇宙開発は急速に進んでしまったようです。最後は次元の壁まで超えてしまっているし…。
なんというか、社長の執着は、みんなからは過去へのネガティブな執着に見えたのかもしれません。アテムは帰ってこないのに、アテムに敗北した己の屈辱を晴らすという執着…つまり過去ばかりみている、と。でも、社長は違ったのでしょう。社長の執着は、ポジティブな未来への執着だったのです。アテムと再び会って必ず対戦することを信じていて、誰もがムリだと言ってもあきらめない。絶対に可能なはずだ、自分にはそれを実現する能力がある、必ずやあの男のいる場所にたどり着いて再び対戦するのだ、そういう未来へのポジティブな執着だったのです。
(ああ、勝つまで対戦することを考えているとは思うし、必ず勝利すると断言しているものの、社長がいままでアテムにまともに勝てたことはない…。アテムに勝ってしまったらそれはそれで、お前はその程度の男か!って煽ってさらなる勝負をするだろう…おそらく究極のアテム限定マゾなのだ…)
それは置いておくとして、社長は過去に執着しているように見えて、実は未来に執着していました。だからこそ、「いま」アテムに会えなかったのにさわやかな顔だった(「あいつは来たのか。…そうか」のときの顔です)。あれは、キューブを使った次元デュエルの末に彼がやってきたという事実や論理を理解し、キューブを活用して次元を超えればアテムに会えてしまうことに気付いた科学者の顔だったのだと思います…。最後のロケットのシーンで、モクバに穏やかな顔で対応していたのも、絶対成功すると確信していたからなのでしょう。

③海馬瀬人が教えてくれた、「良き執着」「未来への執着」の姿

散々、社長について書いてきましたが、最後にこれだけは書いておかなくてはと思いました。

執着は悪いものだと思い込まされていますが、それは、執着イコール手放すことへの恐怖だと思われているからなのです。失ったらどうしようという思いがあるからこそ、それは失った後に憎しみに変わります。だから執着してはいけないという教えがあるのでしょう。
しかし、社長はどうでしょうか。失うことへの恐怖ではない。取り戻すことへの執着でもない。

彼は始まりこそ、唯一の敗北という汚点からスタートしましたが、次は自らの敗北というところに執着したのではなく、(マインドクラッシュを経て)アテムに勝つことに執着しました。アテムに勝つだけでなく、彼と自分が戦うのにふさわしいモノ、あれこれ最高の舞台(バトルシティ)や最高のヴィジョン(デュエルディスク)による再現度を突き詰めていった結果、アテムに勝つことが彼の生きがいのように彼も口にはしていますが、本当はその領域を超えてしまっていたのだと思います。つまり、勝ち負けは戦ってからかんがえればよいものとなっていき、彼と再び戦うこと、それを通り越して彼と再び出会うこと、最終的に「アテム(本人)への闘争心」「アテム(本人)への執着心」(※「」内の()は高橋先生ではなく私がつけました)になっていったのではないでしょうか?

社長の凄いところは、自分には不可能はないと思っている所です。だからこそ、ネガティブな考えに浸食されながらも、アテムという光を追い求めた。追い求める権利も力も自分にはあると思っていたからです。どんな壁があろうと必ずアテムにたどり着けると自分を信じていたからです。

そして、ディーバと遊戯たちの話を経て、彼は科学的な意味での最後のピースを手に入れた形になった。理想郷にたどり着くことを断念し、現在の幸せを生き始めたディーバたちにはもうキューブは必要なかった。これが、海馬にとって願望をかなえるための最後のピースだったのでしょう。彼はキューブの力と最新技術を合体させて、次元を超えてアテムに会いに行くことができたのです。なんだこの少女漫画?社長大丈夫か!社長ならやってくれると思ったけど、でもなんだこれ!?映画館で驚きすぎて口がぽかんとあきました。

彼が自分で千年パズルをすべて組み立てても意味がない、表遊戯が最後のピースを入れなければ意味がないということがわかっていたり、次元デュエルの最後に自分が消えても表遊戯に千年パズルを手渡したシーン。表遊戯を通してアテムという個性を大切にし、アテムを通して器である表遊戯のこともある程度信じていたのは、原作を通して変わった彼の大きな成長だったのではないでしょうか。彼にとって、信じられるものは己の力(多分己の力の中にモクバは含まれているんだとおもう)だけであったのに、彼はアテムを通していろんなものを信じていました。貴様に免じて信用してやろう、とでも言ってそうです。

私は、どの生き方もわかるなあと思いましたが、社長の突き抜けた生きかたには特にあこがれました。執着心が変わっていき彼自体も成長していく過程で、彼にとってアテムは越えなければいけない壁ではなくて、彼が成長していくために必要な大切な戦友であり絆になっていたのです。
勿論、社長本人のすごい天才的な能力があったからこそポジティブな考え方が可能だったのだと思いますが、でも、ぼんやりと夢は叶うものなんじゃなくて、周りも全部、神も運も運命も全部巻き込んで絶対にかなえてやるわ!というその勢い。本当にすごかった。
アテムもぶっちゃけ、やってくるとは思わなかっただろうけど、自分とデュエルしたいがためだけに次元までこえてここまで追いかけてきてくれてしまって、本当にバカだなあって思いつつもうれしかったりするんじゃないでしょうか。最後に二人がデュエルを始める感が醸し出されていて本当によかったです。

●細かいところ

①ディープアイズ・ホワイト・ドラゴン
高橋先生も「女性的なイメージ」といっていますが、コレ、胸当てがあることがお分かりいただけますか?メスなのです。パンフレットにもあるとおり、召喚直後、海馬の後ろに立っている様子は、まるでキサラのようです。
広がっている翼はまるでキサラの髪のようであり、女性的な肉体、長い脚、どれもキサラが中に入っているかのようなバランスかつフォルムです!
映画館でみたとき、ああっこれはキサラなのだ、と思いました。

②アテムが呼び出したのは…マハード?!
カードを引いたはずだけどブラマジではなくてマハード(神官服)が出てきましたね?!爆笑
しかも使っていた魔法も、いつものブラックマジックではなくて詠唱と文様からして精霊魔導なのでしょうか?!
ブラマジではないのだからマハード本人の魔法なんでしょうけど…えっと…えーと?!うーんと?!
だめだ、床からオベリスクが出てくる次元デュエルで深く考えちゃだめだった。

③アテムが一切しゃべらないことを徹底している件
おそらく先生が徹底していたところなんじゃないでしょうか。笑みを浮かべたり、表情で色々表現しています。しゃべらない。最後のシーンでも立ち上がって笑みを浮かべるところまでです。そこを徹底することが、原作のその後の正史として重要なのでしょう。

④ラストバトル後の社長の細かい表情について
映画館で見ていて、一緒にみていた子は気づいていなかったので私の推測になりますが…

社長、倒れている間にアテムがでてきてすべてが終了したにも関わらず、さわやかな笑み。なぜ?
=キューブを使って次元を揺らがせることでアテムと会うことが可能になったという、新たな理論の発見に満足?
自分自身は会えなかったのにあの穏やかな笑みはなんだろうと思ったのですが、直後のロケットにのっている所からすると、あの場面でキューブの活用に気付いたからなんじゃないだろうか…?

モクバに、あとは任せたぞといって穏やかな表情で出発。なぜ?
=成功を確信しているだけではなく、帰ってくる地点も計算済みなのではないだろうか…?次元をこえるわけなので、戻ってくる地点もそれなりに選べるだろうし、向こうで過ごした分と同じ分だけかえってこないとかそういう縛りはないだろう。

キューブが活用されている件
=もともと千年アイテムと違って所有者を決める物体ではないので、プラナかプラナの素質があれば使えるのではないだろうか?

⑤いまさらだけど「マルチバース理論」
パンフレットにさらっとかいてあるけど、つまり、パラレルワールド(平行世界)を肯定する概念ですよね。
つまるところ、私には、最後の社長が次元をぶっ飛んでアテムに会いに行ってデュエルを叩きつけるところを描きたいがためにこの映画の間の部分は生まれたのかな?とまで思いました。
次元をこえることができるキューブがあれば可能だもんね。ディーバたちのくだりは、最後のシーンを可能にするために必要だったのかもしれないって思ったのでした…wwwwwいいぞいいぞ社長もっとやれ。

●さいごに

ここはちょっと私が不勉強な部分もあるかもしれないんですが、というか高橋先生が8つ目の千年アイテムであるキューブを原作中に登場させていないのはそもそもそのときは考えた無かったからかもしれないんですが、いくつか可能性があったのかなと思ったのです。

A:「ホルアクティの光創造により史実が変わり、千年アイテムに新たな使い道が発生した」説

千年パズルによる再現バトルで史実がかわることは、『千年の書』にもかかれています。
おそらく最後に社長が飛んでった先の世界は、アテムが王で、七神官も邪念に染まっておらず健在でありながら、千年アイテムはアクナムカノン王の時代に国を守るために作られている世界、となっているはず。ならば、アクナディンが千年アイテムを作った時、その7つを集めた者(つまり実質的には神官を統べるアテムだけど)が(7つを納めて)皆を理想郷へ導くことができるという設定にしていてもおかしくないよねっていう。
現実にアテムがそれを行わないのは、アテムには民から誰かを選んで誰かを捨てることなどできないし、自分がみんなを現実世界で守っていくのが王の仕事だと思っていると思うからです。しかし、王の時代が終わりをつげ、考えたくないが世界が闇に包まれてしまった場合、千年アイテムによる新たな世界への救済という可能性を用意していたのかもしれません。
ゾークの場合は次元のはざまから闇が復活して流れ込んでくるということですが、ホルアクティの場合は逆で、次元をつないで新たな光の世界へ旅立てるという、正反対の意味になるのかな?とすれば、ホルアクティの改変した世界には付け足されておかしくない設定かなと思っただけです。
だからつまりよくわかんないけど、アテムの勝利で史実が変更になった上、ホルアクティの創造で現実の一部分が過去の設定ごと変化――これこそマルチバース理論でいう別次元にシフトしたことによって、「キューブ」も生まれたのかもしれないって思ったのです。考えすぎかな。

B:「キューブはもとから存在していた」説
こっちの説にたつと、キューブはもとから存在していた、つまりゾークの意思をうけて千年アイテムを作ったアクナディンが同時に作っていたという設定だとすると、7つを納めるあの台座にこそキューブが埋められていた可能性が高いんじゃないだろうか?そして、キューブが存在するということ、つまり、台座自体=キューブこそが八番目の千年アイテムであることは、ゾークとアクナディンしか知りえないことだったんじゃないだろうか?
うーむ、しかしシャーディが使っていたことを考えると、台座からキューブのみを抽出することは可能で、誰かしらが大変なことをしでかさないように台座から次元の扉を開く機能を持ち出してシャーディが守っていたというのが正しいんだろうか?
いやしかし、そうすると、ディーバがもっていたはずなのに王の冥界への扉は開いているわけだし、だめだよくわからない。
キューブは台座の力を引き出すモバイル装置とか?いや、台座がキューブの出先装置とか?
やめよう…これ以上答えが出ないことを考えるのは……

ま、まあ私はAだったらいいなって思うだけです。以上!

●さいごにひとこと

やっぱり遊戯王は最高だった。アテムありがとう!社長ありがとう!そしてこの映画…これなんて同人誌?!いいえ原作です。



途中で省略した注部分↓

※注1 ディーバたちの集団性意識について

藍神…ディーバたちについては、ちょっと「集団性意識」や高次元へという表現がぶっ飛んでいる印象は受けましたが、私は割と専門にこういう概念についてリアルの仕事の方でやってきているので違和感はありませんでした。ぶっ飛んでいるのが遊戯王だったんだ、って後で思い出しました(声優さんのインタビューでもそういう気づきの指摘はありましたwww)
軌跡シリーズの「輝く環」と同じで、ディーバの持つ第八の千年アイテムである「キューブ」は、心清く正しく、憎しみに支配されない強い意志を持ったプラナが持たなければ逆効果になってしまいます。

プラナの「集団性意識」については、私はこれを、心理学用語の意識と無意識(=潜在意識)の領域の話に相当するのかなとかんがえました。つまり、プラナになった者は母体たる潜在意識を認識し、その深くて穏やかな海のような潜在意識でつながっているのではないかと考えました。プラナになった者というのは、シャーディがつけた▼マークのアレです。プラナの素質がある者=表遊戯などは、つけられていないからおそらくつながってはいないんだろうと思います。

軌跡シリーズでも「輝く環」による理想郷は最終的に人の手で封印されましたが、それと同じで、理想郷に導いたとしても、理想郷は、結局ただの願いをかなえる願望器にすぎず、莫大なエネルギーが存在するだけなわけですから、世界自体が清浄なわけじゃなく、彼らの集合的無意識により秩序が保たれるだけだと推測できます。FATEシリーズの聖杯とアンリマユの件も同じです。争いのない穏やかな理想郷という場所はプラナの集合意識により秩序が保たれるのだと推測されることから、獏良の千年リングという不純物が次元に取り込まれることでディーバに悪影響を与えてしまったように、一滴の不浄なものが存在すれば、その場所は理想郷ではなくなり、また別の理想郷を探すことになりはしないか?ここは理想郷ではない、もっと美しい世界があるはずだ、この世界を抜け出すことが我々の使命だ、と、また理想郷ジプシーになってしまいますね。

結局シャーディはなにが言いたかったんだって感じですよね。私は、シャーディのいいたいことはセラのほうがよくわかってるのかなと思いました。そういうアイテム(キューブ)があり、理想郷への扉を開くという道が存在している以上、それを課された者が出てきてしまう。しかし、課された者もまた、それ以外の道を選ぶことができる、ということです。
時間が経つと、それが存在する意味は曲解して伝わったりもします。結局A説だろうがB説だろうが(この記事の「さいごに」で書いた、キューブについての仮説を参照)、なぜキューブがあり、なぜ理想郷へいかなきゃいけないのかはよくわかりません。人類のうち選ばれし者だけを船に乗せて新たな世界へ運んでやり直す、そういうリセットのための道具として用意されたのかもしれません。でも、リセットしたい者、リセットを望まない者との戦いが起きて、リセットすることが宿命だと思っている者もまた、衝突して敗れることでそれ以外の道を選ぶことができる、ということです。セラは、遊戯たちと出会うことで兄ディーバや自分達プラナの運命も変わる可能性を秘めているとわかっていたのではないでしょうか。自分たちの宿命や当たり前と思うことを止めてくれる人が出てくることをどこかで願っていたのかもしれません。

一族の宿命、選ばれしものの運命、同じ教義のもとに集う仲間、そういうものは、何も持たないものをいきなり強くします。クロムウェルの鉄騎隊がピューリタンの宗教的な結束で死を恐れない軍隊となったのと同じで、何も持たないものに対して宿命を与えることは、生きる意味を与えます。
ディーバには、生きる意味が必要だったし、シャーディが死んだことで、生き続けて執着することを覚えた。そして、敗れることで、理想を追い求めるだけではなく、目の前の大切なものを大事にして生きていくことを覚えた。
やっぱり映画はディーバの成長物語だったのだと思います。

うん、社長?社長はもっとすごいことになってしまっていると思います!!!

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