ハーメルンのバイオリン弾きを読み返してみた

月刊少年ガンガン連載「ハーメルンのバイオリン弾き」。昔読んでいたものを読み直して新たな視点を得る「自分史計画」には必須の作品でした。小さい頃に読んでいて、どう考えても強く影響を受けていたと思うので読み返したいと思っていました…が、37巻もあるので紙の本だと場所をとってしまうしまとまった時間も取りにくいし…。今回、コロナの影響で仕事も減ったので、kindleで読んでみることにしました。

2000年には完結し、連載終了しています。続編が2つでています。ガンガンコミックスでしたが、現在は単行本がココカラコミックスから販売されている作品です。

Contents

ストーリー紹介

魔王がパンドラの箱に封印されてから500年。復活寸前の魔王と聖女に間に生まれたハーメルは、人間から迫害されながら、魔曲で敵を倒す巨大バイオリン弾きの勇者として旅を続けていた。攫われた母を助け出すため、魔王を倒すため。喋る鴉のオーボウ、スフォルツェンド魔法王国の王女フルート、双子の妹で元魔界軍王のサイザー、幼馴染の黄金のピアノ弾きライエル、剣技の 亡国ダル・セーニョの王子トロンと共に北の都へ向かって旅を続けるが…

音楽をテーマにした作品なのでクラシック音楽の作品背景の話が多く出てくるのが特徴で、キャラ名もみんな音楽由来になっている。ギャグテイストが独特なので、読み手を選ぶマイナー作品。

そして、苦難を乗り越えて成長するというテーマが強く描かれすぎて、主人公たちを絶望へ突き落とす苦しみが多すぎる気がしてならない作品。

序盤

オーボウだけを連れて旅をしていたハーメルのパーティに、孤児の村娘という設定のフルートや幼馴染のライエルが加入する序盤。

昔の漫画だから最初の設定が雑だなぁとは思いつつ(魔曲の扱い)、それでも昔の絵柄のほうがムチムチしてなくて少年漫画っぽくて好きだな。イラスト何ににてるんだろっておもったら、ことぶきつかさとスレイヤーズと似てるのか!同じ時代だわ。

最初から変わりのないギャグの量…。ヨーロッパの雰囲気のはずなのにギャグは日本のネタなんだよね。でも昔の漫画なので。ハーメルがライエルをいじるときに小学校ネタを出してくるのが定番だけど、ネタが日本の小学校ネタなんだよね。そういうのでも世界観がどうのっていうのが批判が出ない昔のマイナーな漫画だったなと思い出す。ライエルとかのこのギャグの言葉のセンスやばい。やっぱさすがだわ。グルグルもだけどおそろしいほど言葉のチョイスが神がかっている。グルグルと違って好みが分かれそうだけど。

スフォルツェンド編

人類の守護国、魔法王国スフォルツェンド。回復魔法の使い手、女王ホルンが統治する人類最後の砦。ホルン女王が15年前の戦争の時に国外へ逃した娘がフルートだとわかる回。母と子、きょうだいとの関係というのがこの作品のテーマの一つでもあるのだが、既に母は回復魔法の使いすぎで後数年しか生きられないし、兄は自分を守って死んでいるという、フルートに関する重すぎる背景が明らかになる回。

それでも少年漫画らしいところがあるというか、まだ重いといってもヴォーカル編やオルゴール編、魂の剣編とは痛みが違うのでまだまだ読める…。すごく好きなシリーズ。
圧倒的な魔族と戦う魔法兵団とクラーリィ大神官、最後に駆けつける勇者ハーメルが魔曲で倒すという流れ…1番最後の北の都編を思わせる。

それにしても初期のサイザー様はお美しくて気高くて最高ですね。

スラー編

魔王ケストラーが封印された箱を開けるために必要な鍵、それはホルン女王が15年前にフルートに預けた十字架だった。ハーメルの双子の妹であり、魔族に育てられたサイザーは、魔族に従って箱を開けるフリをして逆に魔族を封印しようと試みるが、他の魔界軍王によって瀕死の状態に追い込まれてしまう。

スラー編のサイザー様は最高で、11巻は最高に素晴らしい。

水晶に閉じ込められた母親を恨んで魔界軍王になるが、いつか母親を解放して話をしたいと思うようになったサイザーが、魔族に従うフリをしながら母親を助ける手段を探して身を投げ出すというもの。その瀕死のサイザーを救うためにフルートが回復魔法に目覚めるという展開。オーボウとオカリナの話の次に純粋にぐっといいところ。

想定通り、11巻までは私の好みの話だった。昔に比べると、そんなに痛みの演出が必要かって思ってしまうが、それでもサイザー様は最高だしやっぱ推しはサイザー様なんだよな仕方ない。

オル・ゴール編

ハーメルンが重い話になる原因になっているのが、冥界軍王副官のオル・ゴールと囚人ヴォーカル。特にオル・ゴールは、FGOのシェイクスピアの宝具のように相手のトラウマをえぐっていくスタイルなので非常に苦しい展開が続く…。

ハーメルンの最大のテーマが「信じる強さ」で、特にオル・ゴール編では、オル・ゴールの悪辣な絡め手のせいでフルートがハーメルを疑ったり、ハーメルがトラウマから暴走したりと「信じる強さ」が勝利の鍵になる展開。

この“人を信じる”について、このハーメルンでまだ恵まれていたというか複雑でない理由は、仲間に裏切り者がいないことなんですよね。実際の現実世界には、信用できない仲間や裏切り者が多発するので、この理念は本当にこの漫画のこの仲間たちだから使えるだけなんだよね。そこを私はちょっと小さい頃理解しきれてなかった気がする。私は、フルートのように“人を信じる”ことで辛い場面を乗り切れるんだって思いたかったのかもしれない。

母がハーメルに教え続けた教訓。「人を信じ通すことで人は救われる」。フルートも同じ理念で強さをもつ。というかこの作品においては、パンドラ母さんとフルートは両方とも聖女だし概念的にはイコールなんだよね。フルートがハーメルや仲間を信じるという想いが全てを上回って魔族に打ち勝つわけですが、しかしそれは、自分が信じたい人の姿が本当だった場合だよね。

魔族だ、悪魔の子だって言われているハーメルだけども、本人は魔王と聖女のハイブリッドなので、聖女の血も流れている。拗ねてひねくれてしまった性格はさておき、本人の本性が殺戮や暴虐ではないわけです。だから、ハーメルの場合は疑われたとしても本性は真実善なので、フルートや仲間たちがハーメルを信じ通してくれて、ハーメルの側も仲間たちを信じ通すだけでいい。他人がどう言っても、世界がどう言っても、それに誑かされずに自分たちの信じたいものを信じて強く生きることが彼らの正解に繋がるわけです。

まあ、幸いなことに仲間に裏切り者がいないので、“信じる強さ”が絶対的なテーマとして何度も登場するのですが…。もしこれが、仲間だと思っていた人が裏切ったら?友達が本当に信用できない場合は?そういう場合は、人を信じるという理念は通用しない。この作品でのみ通じる話なんですよね。私は幼い頃に読んだからそこに気付けなかったような気がします。

さて、スコア編では、オル・ゴールに打ち勝ったハーメルが初めて人前で謝ります。魔族であることを認め、帽子を取って角を見せて謝罪する。その上で、仲間たちはハーメルと共に北の都へ向かって魔王を倒すことを宣言する。色んな事情で集まった仲間たちだけど、ここでやっとひとつにまとまる。自分が魔族であることを認めるハーメルの姿。これが、自分を受け入れるということ。そして、魔族でありながらもみんなが信じてくれた自分を、信じるということ。

ヴォーカル編

魔王に反抗して500年に渡り封印された囚人ヴォーカル。ハーメルが「なりたくない魔族の姿」を映した存在。使命などは関係なく、衝動と感情のまま、殺戮や破壊を行う快楽犯。しかし、これに勝つには信じる強さなどという精神力ではダメで、ヴォーカルに対抗できる圧倒的な力が必要になる。このヴォーカルの登場により、ハーメルやサイザーは、自分の中にあって使うことを避けてきた魔王の血を、制御しながら力として使うことを身につけるというわけです。

この辺りは魔曲で戦うのはライエルだけになってしまうので、ハーメルンのバイオリン弾きとは?って感じになってしまうけれども、まあそれはそれ。

スラー編で仲間になったサイザーと、スラー編から一度離脱してスコア編で合流したトロンには因縁があって、魔族を封印する箱を探すためにダル・セーニョを滅ぼさざるを得なかったサイザーと、そのサイザー含む魔界軍王に国を滅ぼされたトロンという対立構図に。

サイザーは一度死にかけてフルートに救われてるし、色々騙されたり信じようと思ったりと既に人生経験を積んできたので、トロンに対しても謝ることができるけど、トロンはまだ12歳とかでしかも甘ちゃん王子なのでサイザーを理解することを感情が拒んで、酷いことを言ったりしてしまう。まあわかるんですけど、ただ、読者の側もずっとサイザーの葛藤はみてきたので、サイザーが責められるとかなり苦しい。心が。

それで、サイザーは、既に自分が過去に犯した罪に正面から向き合い、今の自分を信じてもらうために自らの信念を行動で示し続けなければならない、と頑張る。信じてもらうために自らを示し続ける罪人、という姿は、部下のオカリナ(オーボウの娘)を通して客観的に語られますが、ほんとこの姿を見るのがつらい。昔からトロンは苦手だったけどやっぱ苦手だわ。

サイザーは魔王ケストラーと聖女パンドラの子にして、ハーメルの双子の妹。聖女の血を強くひいている羽のある天使。赤子の頃に魔族に攫われて、北の都に閉じ込められ、オカリナがつきっきりで育てた。

オカリナが語る昔のサイザーは、本を読むのが好きなおとなしい女の子だった。殺戮なんてもってのほか。大鎌を持たされて出陣させられたのは、育ての親であり唯一の友であるオカリナを人質に取られたから。「なんでもするから、オカリナを殺さないで──」

そして、冥法軍王に吹き込まれた嘘により、母は自分を捨て兄を選んだと思い込まされ、人間に復讐するようになる。魔界軍王のひとつ妖鳳軍王になり、魔王抜きの実力ではNo.3にまで上り詰めた…ということになっている(実際は囚人ヴォーカルとかいるのでNo.3かというと怪しいのと、No.2のドラムがスフォルツェンドで早々に脱落するのと、No.4のギータが実力を偽ってるなどなどがあるので順位はあてにならない)。

そして水晶に閉じ込められた母と向き合ううち、魔族を封印して母を解放すれば、自分の母も温かかったりするのではないか?と母を求める気持ちで魔族を裏切る行動に移っていく。

魔族を裏切り、オカリナ以外の部下を箱に封印し、死にかけてフルートに救われ、双子の兄の魔王覚醒を阻止しながら、自分の罪と向き合いながら、やっと仲間たちに笑顔を見せられるようになった、そんな矢先のトロン、というわけです。

サイザーという人物は本当に哀れなのに、強くなければいけなかった。そして、オカリナを人質に取られているサイザーにとって、部下はあれど戦いは一人だった。人は信用できないから。いつ裏切るかわからないから。そのサイザーが変わろうとして仲間と打ち解けようと努力している矢先のトロンなのです。

トロンに追い出される形になったサイザーはそれでも一人でヴォーカルと戦い、フルートを攫ったヴォーカルを追いかけ、自分も満身創痍なのにトロンという仲間を守るために身を挺したり、そして最後はフルートの代わりに聖女として魂を奪われる。本当にくっそつらい。

ほんとにこの作品は、仲間を決裂させては試練を与える、そういう作品だなあ。胃が痛くなるわ。そこまで苦しまなくては勇者にはなれないのか?そこまで苦しまないといけない使命とは?悲しい。軌跡も好きだけど、軌跡のほうがまだ、キャラクターを大切に扱ってくれる。決裂させてメンタルを傷つけて試練を与えるわけじゃない分、理想的だ。ハーメルンは読み返して胃が痛かった。やっぱなんでそこまでサイザー様は哀れな目に合わなきゃいけないんや?疑問すぎる。酷い。

オーボウ・オカリナ編

ヴォーカルに魂を抜き取られ、「なんでも切れる剣」にはめる宝石に魂を閉じ込められたサイザー。サイザーを救うため、自称愛の戦士ライエルや仲間たちが立ち向かう。精霊使いのライエルは精霊を通してサイザーの苦しみを理解していたので、ボロボロになりながらサイザーの魂を取り返す。サイザーは今までライエルが自分を好いてくれてることがよくわかっていなかったけれども、ここでこんなに愛されて救われたことで、ライエルの愛を受け入れるようになる。主人公カップルがいつまでも進展しない真横でラブコメの始まりである。最後にヴォーカルからサイザーを守ってオカリナは消滅してしまう。

実はオカリナ編に入る前、フルートの兄の「リュート物語」がかなりの分量あるんですよね。ここで挟んでおかないと34巻どうすんだって話なのでたしかにそうなんですけど、それなので意外とサイザーがサイザーに戻るのは後の方だったんだなって気付かされました。

当時私はリュート×サイザー派だったので、ライサイ展開が嫌で仕方なかったです。でも、おとなになった私が読むと、ああ…こんなにしてもらったら、こんなに愛されて救われたら、ライサイなのも当然だわ。そうだわ、これは仕方ないわ。わかるわ。って思うし、サイザーを幸せにできるのはライエルなんだと思うんです。

サイザーも作品中で言っている通り、リュートとサイザーは似たもの同士だった。いちばん大切なものが目に見えるところにあるのに、自分には無力で助けることができない、という孤独な者同士。リュートにとってはベースに支配されながらも見え続けているホルン女王や妹のフルートのこと、サイザーにとっては水晶に閉じ込められた母パンドラのこと。だから、サイザーの「話してみたかった」という想いは本当だし、話したら気は合うのでしょう。

オカリナ編はなんか1番泣きました。オカリナはずっと罪悪感があったんだって、読み直して知った感じです。昔はあまりの酷さにどうしてここでオカリナがいなくならなきゃいけないんだってことと、ライサイに耐えられなくてこの辺の記憶がぶっ飛んでしまっていました。

オカリナは全てを知っていた。サイザーをベースが騙していること。母に捨てられたのではなく、母から魔族が奪い取ってきたこと。そして自分を人質にとられて戦場へ出向き人殺しをせざるを得なかったこと。それでも、真実を伝えたらサイザーを殺すと言われたオカリナは黙ってサイザーの側に寄り添うことしかできなかった。父オーボウが聖女パンドラに救われて魔族から抜けたように、側で育てて見守って自分を唯一頼りにして懐いてくれて、でも騙されてかわいそうで、そしてそれは自分のせいでもある。ずっと罪悪感があった。

仲間と一緒にいるようになって笑うようになったサイザーに生きてほしくて、必死に守り抜いたオカリナ。ずっとサイザーに謝りたかったオカリナ。ライエルに言われてサイザーは頭でやっと理解するのです。自分は一人ではなかった、オカリナがずっと居てくれたのだ、と。

そして、明かされるオーボウの過去。

魔王ケストラーが完全復活するために箱を開けられる聖女を探していた。その間諜がオーボウだった。カラスの姿で人語を話しているところを見られて狙撃され、致命傷を負ったオーボウを救ったのが聖女パンドラだった。そして、パンドラを騙してイケメンの姿でやってきた魔王との間に、角の生えたハーメルと羽の生えたサイザーが生まれ……

魔王は、自分と聖女の間に生まれた子の血を飲もうと計画を立てた。その計画を知っていながら、脅されて黙っていざるを得なかったオーボウだが、母子を守るために魔族を裏切り、魔王を裏切った。サイザーを奪われた母兄の側に居続け、母を奪われたハーメルの側に居続けた。

オーボウも言う。自分がパンドラ様を見つけなければこんなことには、全て儂が悪いんじゃ、と。ああ、オーボゥもオカリナも同じなんだね。自分が見つけなければ、自分が黙っていたから、そういう罪悪感で。そして側で守り続けた。

うーん、昔は主役たちに感情移入してたけどいまはオカリナやオーボウのほうが泣けますね…。わかりみすぎる。

北の都編

オル・ゴールvsサイザーとか色々ありますが、やはり特筆すべきはクラーリィvs冥法軍王ベースです。

ベースの使用している肉体はフルートの兄リュート、つまりクラーリィの恩人でありクラーリィの前任の大神官なのです。ベースから解放されたリュートは、ベースの高度な魔法行使のせいで肉体が寿命を迎えていたので、解放しても肉体が滅んでしまう。北の都へ兵士を転送する大魔法を使った母ホルンも既に亡くなっていて、救い出した兄も目の前で体が崩れていく。

フルートの心境は考えたくないですね。でも彼女は普通の人ではないので。メンタル強いから。聖女だから。

リュートもホルン(の幽霊)も、「愛しい人のために力を使うことができたなら後悔などしない」と言って成仏してしまいます。

愛そうと決めた存在に対し、彼らを育て、恨まれても構わないから全てを尽くす。後悔などしない。彼らスフォルツェンドの慈愛の血統の強さですね。

FGOのスカディの台詞とも近いです。愛そうと決めた存在は自分にとって庇護すべき存在。どんなことをしようと、その在り方を理解し尊重しできる限り自由を与え、愛そう。生かそう。それが、ハーメルンにおいても「信じる」という言葉になっているのでしょう。だから、実際はハーメルンの「信じる」は「愛をもって信じる」が正しいのかもしれません。誰も彼も信じるとは言ってないですから、この作品。信じるに値すべき人が人類の中にもいるはずで、その人と出会い、信じ合うのだ、とパンドラはハーメルに諭しているわけです。信じるに値すべきでない人とまで信じ合えとは言ってない。

最終章。ケストラーをみんなで倒すところ。ちゃんとハーメルンのバイオリン弾きらしく、魔曲で仲間を強化して聖女が歌をのせて戦う。一応ハッピーエンドなんだと思います。

再読を終えて

まず、全体で見ると、思ったより泣かなかった。ギャグパートが長すぎたんだとおもう。この究極ギャグを除いたら巻数ページ数かなり減るんじゃないかなこれ?中身だとそこまで厚くないよね?

絵柄は初期のほうが好みでした。30巻くらいからムチムチになってくるのが嫌いです。ムチムチっていうのはなんですかね肉を感じるムチムチっていうんですかね…

そして全体的に、ほんと、ハーメルンは、登場人物を苦しめることでストーリーを進めるんです。それが胃にきました。オカリナが死ぬことも知ってたし、サイザーが救われることを知ってましたし、展開は知ってるけど、でもつらかったです。本当にキャラクターがかわいそうな作品すぎる。サイザーもライエルもフルートもそうなんだけど、みんなかわいそうな要素があって、かわいそうすぎるんだよね。それをさらにオル・ゴールとかでかわいそうのスパイスをかけるのです…。

キャラの好みは昔とそこまで変わりはなく、サイザーやリュート、クラーリィが好きなことに変わりはありませんでした。ただ、昔はフルートとか好きでしたが、今はオーボウやオカリナの方が好きです。そして、昔はライエルが苦手でしたが、そこまで考えて一途にサイザーを愛してくれるならいいかなって思えてしまいました。

昔気付けなかったこと

昔よく整理できてなかったんですけど、ハーメルンの「信じる」の仕組みには、こういう大前提が必要なのではないでしょうか。

「自分を認める」+「自分の気持ちに偽りがない」+「自分を信じる」

さらに……重要:信じたいと思っている自分の認識が間違っていないこと

(1)自分を認める

自分を認めるというのは、スコア編のハーメルの行動がわかりやすいです。今までハーメルは自分は魔族だと認めずに逃げていましたが、幸いなことにハーメルには信じてくれる人がいた。みんなが信じてくれた自分を信じることにした。そうして魔族である自分を認めたからこそ、世界の人々も自分を信じてくれたのです。でもこれって最初に信じてくれる人がいなければ終わってるよね、っていうオチもあるんですけど。

サイザーも赤い魔女と呼ばれるのを嫌がっていたけど、そうであることを認めた上で自分を背負っていくと決めた姿も印象的ですよね。やはりこの作品では「自分から逃げない」「自分を認める」が鍵のひとつなのです。

(2)自分の気持ちの偽りがない

さて、実はこの作品には自分の気持ちに偽りがある人がほとんどいません。自分を騙して何かやり続けてわからなくなってしまっている人がほとんどいないんです。ペルソナシリーズとかとは逆ですね。

周りに黙って罪悪感を抱えている人はいても、自分の気持ち自体を偽っている人がいないというのは驚きでした。

じゃあ、大前提の信じようとしたことも事実とは違ってそう思いたかっただけで、信じたかった気持ちも偽りだったなら?酷いことを言う人に嫌だと思ったりしているのに、それでもその人が善だと思わなきゃいけないと思って自分に言い聞かせているのだったら?それはその人は、ただのツンデレのハーメルとは違う。DVです。

(3)自分を信じる

最後に、自分の気持ちに偽りがない上で、そう感じる自分を信じるということが必要になります。これは、気持ちに偽りがあるのに、偽りのほうを信じても意味がないということでもあります。

当作品の「信じる」筆頭、最強メンタル聖女フルートの例を挙げます。フルートが信じるを疑ってフルートらしくなくなったのは一回だけで、スコア編でオル・ゴールの策謀にハマってハーメルを疑ってしまったときだけです。

ハーメルは魔王の血のせいで自分の大切な人を傷つけるかもしれないからフルートに酷いことをいって突き放したりしますけれども、ハーメルの本性は善なので、酷いことを言われても、ハーメルは本当は自分を大切に思っているはずだという自分の思いを信じて相手を信じてそばにいることが勝利に繋がりました。

しかし、これはハーメルが本当に善であるということ、そして、ハーメルが善であることを信じている「自分の思いを信じて」いることが大切なんですよね。フルートの最大の長所は、自分の気持ちを理解しているところです。信じたいと思っている自分の認識が間違っていないことが重要なのです。真っ直ぐにその人を捉えて、そうとらえた自分をも信じているのです。すごいことなんですよね。普通の人にはできないし、自分に自信があるとはフルートも思っていないと思うんですけど、でもフルートの強さというのは、その人を信じるぞという自分さえも信じているところなんですよね。

重要:信じたいと思っている自分の認識が間違っていないこと

(2)ではなく(3)の段階の話なんですけれど。

何か出来事や事実→感情の発生→どういう気持ちになったか=ここが(2)
何か出来事や事実→どういうことだったと認識→そうだと思いこむ=ここが(3)

この思い込む前提にある「認識」が間違っていた場合、ひっくり返ってしまいます。

例えばサイザーの幼少期の場合、「母はお前を捨てた」とか「兄を選んだ」とか「魔族に育てられた恩がある」などです。これは認識を間違えさせられ、そうだと思い込まされていたので、信じる大前提の自分の認識が間違っていたケースです。

パンドラ母さんの教えの一つに、「人を信じ通すことで人は救われる」というものもありますが、これも、認識が合っている前提で話が進んでいます。

自分が信じたい人の姿が本当だった場合にしか通用しない台詞なのです。

ハーメルは疑われるような経歴を持っていますけれど、本性は善ですから、信じ通すことでフルートは救われますし強くあれる。そして、フルートは信じてくれるということを信じることでハーメルも強く在れる。事実です。そして、サイザーの場合は認識を改めて前提を変えたからこそ、信じ通すことで救われるようになった。

逆にハーメルの場合、ライエルのお父さんやお母さんを通じて村の人を信用しようとした過去がありますけれど、実際は、ライエルの家族以外からは迫害され、進行してきた魔族に母を差し出されてしまいます。このとき、人間なんてみんな滅んでしまえとハーメルは言いますが、母はハーメルを叱り、人間を信じなさいと言う。

ここ、正確には、 人間の中にも主人公を理解してくれる人が必ず現れるから、全員滅んでしまえなどとは言ってはいけない。そういう人が現れることを信じなさい、ということだと思うのです。すなわち、自分を理解してくれ、愛してくれる人との出会いを信じなさい、自暴自棄になって人間全体を憎んではいけないと。

つまり、事実として認識として、自分を理解してくれる人間が現れたらその人を信じるということであって、 闇雲に人間を信じろと言っているわけではなかったのです。

ただ、これにはかなり長い時間がかかります。そういう人にはなかなか出会えないから。すなわち完成する構図は、魔族であっても主人公を愛して信じるというヒロインと、魔族の自分であっても自分を迫害せず愛してくれるヒロインを信じるという主人公です。

でも、この構図は、ヒロインの側から始まらないといけない。順番はヒロインからが先なのです。愛してくれる人がいて、その人を信じるという順番でなければ成立しないのです。

  1. 人間の大多数は自分を迫害する。異分子として迫害する。それでも自分を理解してくれる人の登場という希望を信じて待たなければいけない。
  2. 希望かもしれない人が現れたら、今度は疑いながらも信じる努力をしないといけない。
  3. そして──、その希望かもしれない人を自分の手で傷つけてしまうかもしれない衝動をおさえなければいけない。

キツイところは、希望を信じて待つということなんですよね。自分から何かアクションを起こしたことが影響するわけではないのです。

ハーメルンの作品にある、「信じる」強さの特徴

ハーメルンの作品にある、「信じる」強さの特徴として、既に述べたように、

  1. 仲間が裏切ることがない。主人公たちが将来に向かって善良である。(過去はともかくとして、この先は味方であるという絶対の信用がある)
  2. 誰かが仲間を疑ったとしても、視聴者の側には既に信じられる根拠が存在しているので、信じることが答えであっても抵抗感がない
  3. 信じる側の要である聖女のメンタルが限りなくタフ
  4. 信じたいと思っている自分の認識が間違っていないこと(=相手は悪い人じゃないと自分が思っていることは思い込みではなく事実と同じであるということ)

という4点があるので、近年の絶対悪が存在しない作品などと違って、「信じる」が最強の武器になっても問題はないんだなと思いました。

ハーメルンから受けた影響

自分は治安の悪い小学校から抜け出すために中学受験を頑張っていましたが、その頑張っていた頃にこのハーメルンを読んでいたので、間違った思い込みという形で影響を受けてしまった所がいくつかあると思っています。

「信じる」は現実世界ではすぐには活かせない

様々な作品から仮想体験した教訓を、人間は現実世界で活かすことができますが、ハーメルンに関しては現実には活かしにくいなと感じました。今はですけど。昔は活かそうとして、間違えてしまいました。

既に考察し終えている通り、ハーメルンにおいては仲間が裏切ることがない。そして仲間の本性が嘘であることもない。ですから、仲間を信じ、仲間を信じたい自分を信じることが最善の手なのです。ですが、現実社会ではどうでしょうか。仲間は裏切りますし、約束は重要な場面で簡単に一方的に破棄されます。

昔、私は、ハーメルンで学んだ「人を信じることが良いこと」、「信じようと努力することが勝利に繋がる」、と思いたかった。なので、私は、酷いことをしてくる人のことを、裏側に優しさがあると信じて善良な面を一生懸命見ようとしていた。ハーメルがフルートをからかうのは好きだから。だから、酷いことをする人がいても、本心では善であるのだとおもいたい。

でも本当はこころの中では直感的に気付いていたんです。その人が信用するに値しない人だとわかっていたんです。だけど、頭で言い聞かせていました。「人の良いところをみなくては──」って。そして、これはハーメルンじゃないんですけど、自分がされたいことはまず人にしなくては、とどこかで学んだみたいで、自分が愛されたいからまず愛する、自分が受け入れられたいからまず受け入れる、をしてしまったんだと思います。

私はそもそもハーメルンの信じるの大前提である、「信じたいと思っている自分の認識が間違っていないこと」を間違えていましたし、「自分の気持ちに偽りがないこと」も偽っていました。

言葉は簡単ですが、実際は複数の要素を満たさないと成り立たない方程式です。これを信じるという一つの単語で安易に吸収してしまった。小学生の読解力では仕方なかったと思うのですが、うーん。バカだったな自分も。

信じてもらうために自らを示し続ける罪人、という姿

サイザーとオカリナの話で出てくるものですね。性悪説で育ってしまった場合、自分が罪人であることを認めた上で、人々に自分の今を理解してもらうために行動で示し続けなければならない。それは、終わりのない道でもあります。

この考え方はとてもつらい。つらいけど、昔、親から性悪説で育てられた私には、サイザーがかっこよく見えた。昔の私は、サイザーのように在ろうと思ってしまった。だから、私の根っこには、私は罪人であるとか、私は悪い子であるという前提がありました。なぜなのかはわからなくても、手頃な理由は重箱の隅を突けばよいのだからすぐ見つかります。あれができないから、これをしなかったから、だからお前は悪いのだ、そういう感じです。埋めても埋めても、手を打っても何をしても、少しミスをしただけで、お前は悪いのだ、に落ちてしまう。

性悪説はつらい。だからなんだってかんじだけど、つらい。(感想

幼い少女の自己変革

昔のサイザーがオカリナを人質にとられて戦場へ行き、ベースに嘘を吹き込まれて憎しみを持って変わっていったように、私もその環境で生き延びるために自己変革せざるを得なかったことを思い出しました。

小学校の治安が悪くて、通りすがりにおはようと言いながら顔を殴り合ったり、すれ違いざまに足を蹴りつけたりするような世界でした。殴りかかってくる男子に対抗するためにカッターを出す女子もいたし、力でかなわないから男子と殴り合う時は髪の毛を引っ張るとか、色々ありました。非常に乱暴で、女の子らしくしていればからかい笑われてストレス発散のいじめのターゲットになる世界でした。

そういう世界で生きるためには、自分は男にならなければいけませんでした。親が文句を言おうがスカートなんて毎日何かしらの蹴り合いがあるから防御力がないので履けませんし、一人称まで俺とかにして、「こいつは女ではない」「こいつは弱そうではない」と思わせないと暴力のターゲットにされてしまいます。友達だと思って約束した人が簡単に約束を破る、重要な場面で約束を簡単に破り捨てたりする。騙され、傷つけられたりした。そういう小学校生活だったのに、生き延びるためには、そういうものだと思うしかなかった。住所にもとづく区分の公立小学校ですから、転校できるわけじゃなし。そういう人たちだと思うしかなかった。離れられなかった。

その頃にハーメルンを読んだ昔の私は、サイザーと自分を重ね合わせた。哀れなのに、強くなければいけなかった。そして、戦いは一人だった。人は信用できないから。いつ裏切るかわからないから。

うーん。色んな偶然が重なるものですが、とにかく昔の私にとって、サイザーは憧れでした。哀れなのに強く、孤独だからこそ強くなろうとして、一人でも生きられる強さを持って立ち向かったから。魔族の仲間は信用できず、いつ裏切るかもわからず、そういう世界で孤高に生きていたから。

誤解がずっと続いた原因

というわけで、「信じる」にせよ何にせよ、正しく理解しないまま誤解して長い年月すぎてしまったのはなぜなのか?について考察したいと思います。

正しく理解できないまま長い年月が経ってしまった一番の理由は、ギャグが多いせいで37巻もあるために手元に全てを揃えることができず、正しくない理解のまま、読み返さないままになってしまったということだとおもいます。

昔、塾帰りに古本屋で立ち読みした部分がほとんどで、お気に入りの7巻,11巻,そしてリアルタイムでガンガンに連載されていた頃に買っていた32巻から37巻は手元にありましたけど、大半の巻は手元になかったんです。1年に1巻しか出ないようなグルグルは手元に全部あったので時折読み返したりして記憶も認識も更新されていましたが、ハーメルンは3ヶ月に1冊くらいでましたし、最終巻はたしか同時に2巻でした。小学生にガンガンコミックス410円×37巻は無理なんですよね。

おとなになり、昔の自分を振り返って再評価する自分史計画のために投資すると決めたからこそ、ハーメルン全巻11,000円分をkindleで課金する気になったのです。自分史計画のために投資しようと思わなければ優先順位も低く、そのお金で他のことをしていたに違いありません。

昔と比べて気付いたこと

「自分を認める」+「自分の気持ちに偽りがない」+「自分を信じる」。
全部に「自分」っていうのがつくということです。

人を信じる、と作品中にはありますけど、まず「自分」なのです。

自分を認め、自分の気持ちを知り、自分を信じること。これが大前提なのです。それができるのであれば、人を信じるという自分を信じることができるから、人を信じることができる。

そして、信じるに値すべきでない人とまで信じ合えとは言ってない。信じるに値すべき人が人類の中にもいるはずで、その人と出会い、信じ合うのだ、とパンドラはハーメルに諭しているわけです…

自分のセンサーが正しければ、自分が信じたいと思える人に出会えるのであれば─…。なにはともあれ、まずは自分を純化することですよね…。ふう…。そしてこいつは無理って思う人のことを無理に信じようとしなくてイイんだって、改めて感じました。パンドラの諭す話はちょっと小学生には難しすぎました。やっと理解できた気がしました。

再読・感想を書き終えて

自分を振り返る中では結構ヘビーな作品でした。影響を受けた部分も大きかったし、当時の自分の環境も大きかったし、今並行して書いているリネージュの振り返りの次点くらいには重かったんじゃないでしょうか。

多大な影響を受けたけれど、正しく読み取れていなかったから長年正しくない思い込みをしてしまったのは痛いです。

ともかく、人を信じる、の「人」は、自分の直感的に信じたいと思える人のことだけでよいということが既に昔提示されていたにも関わらず、小学生の読解力ではそこまで読み解くことができなかった(人、人間、という表記なので、自分から選んで良いということについては、その発言が出た背景などを総合推量して読み取るしかない)。それは仕方ない。無理です。

今こうして、読み返して、再評価して、自分を縛っているあのルールはどこで拾ってきてしまったのだろうか?というルールのもとがいくつかここにあったのでホッとしています。

ところで続編とシェルクンチクが両方出ているんですね…。続編は知りませんでした。ただ、何度も言っている通りハーメルンはギャグパートが非常に多いので投資額が必要に…。今の私は、次は東京アンダーグラウンドや守護月天を読み返そうかなと思っているので、遠い未来に覚えていたら読もうかなくらいの気持ちです。推しカプは公式カプじゃなかったしね!!未来に存在しないからね!!笑

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